自己判断・自己責任
我が西川研究室は厳しいことで有名です。そのことで、西川研究室に入ろうとする人は、色々な人にビビらされています。西川研究室のメンバーに西川研究室はどんな研究室かを聞けば、大抵は「厳しい」とまず言うのではないかと思います。でも、そういっている人の表情を見て欲しい、きっとニコニコしていると思います。さらに、大変だけど、結局最終的にはいいよ、と言ってくれると思います。そして、学部生が後輩に西川研究室を説明する際、「自己判断・自己責任」をキーワードとして説明する場合が多いように思います。
「厳しい」と言った時、どのようなイメージを持つでしょう。指導教官が「なんで、こんなこと出来ないんだ!」とか「そんなことも知らないのか!」と叱責する姿でしょうか?だったら、西川研究室に関して、そのようなことはありません!基本的に私は学生さん・院生さんを叱ることはありません。ただただ、ニコニコしています。馬鹿話をいっぱいして、からかいます。しかし、叱ることはありません。
「分析は大変なんですか?」と聞かれるそうです。そういう人は、どのようなイメージを持つのでしょうか?指導教官が、膨大な課題を指定し、それをやれと命令する姿をイメージするのでしょうか?だったら、西川研究室に関して、そのようなことはありません。私と学生さん、院生さんとの関係において、学生さん、院生さんが一方的に課題をやれと命令されることはありません。あくまでも、その学生さん、院生さんが明らかにしたいものは何か、そして、それを明らかにするためには何が必要なのかを語り合います。その必然としてやらねばならないことを、学生さん、院生さんが自ら判断し、それが課題となります。私としては、「何をしたいの?」、「そのためには何をすべきだと思う?」と聞くだけです。そして、「それをいつまでにやるべきだと思う」と聞いて、その結果として出されたものが期限となります。また、毎週のゼミの場合は、「来週までに何をしたらいいと思う?」と聞き、その結果として学生さん、院生さんが自ら語る課題が来週までの課題となります。私としては、「自分が課題と期限を決めたんだよね」と言って、ニコッと笑うだけです。
もちろん、私がやるべき内容を定め、期限を定める場合があります。ただし、その場合も、「これこれだから」とちゃんと反論した場合は、直ぐに引き下がります。私としては、「それが君の考えだね」と確認です。繰り返しますが、個々人の課題に関して、本人が納得でいないことを、それを承知で私が強要することはありません。
おそらく、多くの人の経験した厳しさとは、人から課題と期限を強いられ、そして、それを叱責される姿ではないでしょうか?しかし、是非、西川研究室のメンバー、及び、OBに聞いて欲しい。西川研究室は、そのようのうなことが最も無縁な研究室です。繰り返しになりますが、西川研究室の厳しさを語るゼミ生、OBに聞いて欲しい。西川研究室の厳しさとは、「自己判断」・「自己責任」を基本としているところです。自らが何をすべきかということを判断することを求められます。それ故、自分自身で考えなければなりません。そして、その結果の責任を他人様(具体的には指導教官等)に押しつけることが出来ないんです。
私は、「良い先生になりたい」、「良い授業をしたい」という、ごく普通に言われる希望の本当の姿を、徹底的に学生さん、院生さんと語ることを大事にします。「良い先生、良い授業」を実現するためには、単に教材に強い、教え方がうまい、また、教育に関する学識に優れているでは「絶対に実現できない」ことを理解してもらいます。それを知ってしまえば、「良い先生・良い授業を諦めて、今のままの延長上で満足する」か「良き先生・良き授業を実現するために、今までとは違った領域で、違ったことをする」かのいずれかを選ぶという、選択に直面します。それは研究のテーマを決めるというレベルもありますし、来週までに何をやるかというレベルもあります。私は、ニコニコしながら、その人の目を見つめ、「どちらにします?」と聞くだけです。
私やメンバーは西川研究室が厳しいことを標榜し、それを語ります。是非、それを語る時の西川研究室のメンバー、及び、OBを見て欲しい。西川研究室の「厳しさ」を語る時の、その人の表情はニコニコしているだろうし、誇らしげな顔をしているはずです。何故なら、西川研究室の「厳しさ」は誇るべきだからです!現メンバーは「良い先生、良い授業」を実現するために、ある選択をしたという誇りがあります。そして、OBは、それを成し遂げたという誇りがあります。
つまり、西川研究室の厳しさは、他から強いられる厳しさではなく、自らの判断で自らに課す厳しさです。それ故、誇っているんです。
補足 自己判断・自己責任は基本ですが、ただし、研究室の目標に深く関わる部分は別です。その場合は、説明は出来るだけしますが、その部分を判断するのは教師の仕事です。 また、自己満足でも駄目です。我々の研究室は「多くの人の心に響く研究」を目指しています。従って、「私の心に響く」だけでは駄目です。根拠なしに「多くの人の心に響くだろう~」と判断したり、「多くの人の心に響くべきだ」ではいけません。
学術研究と実践研究の融合
我々の研究室では実践的であることを大事にしています。しかし、学術的であることを否定するつもりはさらさらありません。それどころか、我々の研究室での成果は、多くの学会の学術雑誌に掲載されています。その数は学会でも有数であると誇っています。
教育研究の歴史の中で、現場の先生方に高く評価された実践研究者は少なくありません。ところが、それらの実践研究者が学会において活躍する例を私自身はあげることが出来ません。例えば、「齋藤喜博」、「大村はま」といった超有名実践者はいますが、彼らが書いた学術論文を私は知りません。逆に、学会において高く評価された研究者は少なくありません。しかし、それらの研究者の論文が、現場実践者に広く引用された例は極めて希なように思います。もちろん、私自身の勉強不足だから知らないという可能性はあります。全くいないと結論づけることは誤りであることは十分承知しています。事実、少数ですが現場においても学会においても高く評価された人がいることをあげることは出来ます。しかし、それらを勘案し、十歩譲ったとしても、実践と学術の両方で評価される人の数が極端に少ないことは事実だと思われます。
おしかりを受けることを恐れず、誤解を受けることを恐れずに、優れた実践研究者、優れた学術研究者の違いを分析したいと思います。私の独断と偏見に拠れば、優れた実践研究者の著作からは、強烈な思い・願いを感じることが出来ます。その思い、願いが教師としての経験に根ざしているため、多くの教師が共感し、それ故に、高く評価されているように思われます。ところが、その強烈な思い・願いを共感できない別なタイプの教師もいます。ところが、実践研究においては、そのような別なタイプの教師を説得する努力をあまり感じることが出来ません。簡単に言えば、「分かる人には分かる、分からない馬鹿には永遠に分からない」という割り切り方を感じます。
優れた学術研究者は、一定の学術研究の作法を心得ています。その作法とは、より確実に事実を伝える作法です。確実であることを大事にしますが、そのために分かりやすさを犠牲にする場合があります。少なくとも、分かりやすくするために、確実であることを犠牲にすることは学術研究の作法ではありません。例えば、数学の集合論、イプシロン・デルタ論法は素人にとっては必ずしも分かりやすくはありませんが、確実ではあります。また、強烈な思い・願いを心に秘めた学術研究者は少なくありませんが、学術研究においてそれを全面に出すことは控える傾向があります。すくなくとも、確実であることを犠牲にしても、思い・願いを全面に出すことは学術研究の作法ではありません。結果として、確実ではあるものの、現場の先生方に分かってもらえない、また、共感してもらえないという犠牲を払ってしまうことにも繋がります。
私は学術研究なんてくそ食らえという教育研究(驚く無かれ大学においてもあります)は、従来の学術研究に対する反動の結果といえ、心が狭すぎるように思います。「分かる人には分かる、分からない馬鹿には永遠に分からない」という割り切り方ではなく、分からない人にも分かってもらいたいという願いがあるならば、学術研究の手法を利用すべきと思います。少なくとも、私は大多数の子どもたちが救われる授業ではなく、全ての子どもが救われる授業を見出したいのですから、「分かる人には分かる、分からない馬鹿には永遠に分からない」という割り切り方は出来ません。
また、実践研究なんてくそ食らえという学術研究にも共感できません。教育研究の目的は、現実の教育の改善に繋がるべきですし、そのためには現場の先生に共感してもらえなければなりません。そのためには、強烈な思い・願いが重要だと思っています。そのため、我々の研究室での研究は、先行研究である学術研究を出発点とはしません。それぞれの院生さんが持つ、経験に根ざした強烈な思い・願いを出発点としています。ただ、それに終わることなく、学術研究の成果を「利用」して研究を進めます。
過去の教育研究の歴史が示すように、実践的であることと学術的であることは矛盾する場面が多いことも確かです。しかし我々は、実践的であり学術的であることを求めています。そのバランスを取る方法は、より多くの現場の先生方に分かってもらいたいと願うことです。その最初の方法は、現場の先生方が学術研究の作法を心得、その上で、自分自身(すなわち現場教師)が納得できる研究方法は何かを自問自答することだと思います。実に、漠然としてはいますが、その中でもがくほかありません。
教科学習には拘るが、教科には拘らない
我々は教科学習を中心とした学習者・教師の姿を研究しています。それが、脱教科を研究対象とする一般の学校教育研究との大きな違いです。なぜ、教科学習に拘っているかといえば、学校教育の圧倒的大多数の時間は教科学習に費やされているからです。その部分が改善できなければ、学校教育を改善することは不可能であると考えているからです。さらに、心の成長と教科学習を分ける考えをナンセンスと考え、学習とはトータルなものだと考えています。そのため、教科学習を改善することによって、全てを解決できると考えています。
一方、従来の教科教育研究と異なって、特定の教科に拘りません。我々は全ての教科の教科学習に一貫するものを明らかにしたいと思っています。
私が高校教師であったときのことです。職員室の隣の部屋にお茶飲み場があり、そこでお茶を飲むのが大好きでした。それは、馬鹿話の中にためになる先輩の話を聞くことが出来たからです。私が失敗したとき、落ち込んだとき、先輩教師から「俺も○○ということあったんだよな~。その時は、○○で・・・」とその先生の失敗談、そして解決の方法などを、クラスの様子がありありと分かるようなエピソードを聞かせてもらいました。先輩教師の教科は様々です。K先生の場合は英語、SUW先生の場合は数学、SUZ先生の場合は社会、SA先生は国語、F先生は体育でした。しかし、そのことに違和感を感じることはありませんでした。それは、先輩教師が語ってくれたのは教科学習の場面ではありますが、教科の内容ではなく、教科を学ぶ子どもの姿(そして教師の姿)だったからだとおもいます。
学者として数多くの学会に所属しています。その多くは教科を単位とした学会です。また、複数の教科を含んだ学会に参加すると、参加者が発表する教科
が自分の専門としている教科か否かで見る見ないを判断する姿を目にします。これは学問の世界ばかりではないように思います。現場の研究会でも、教科ごと、学年ごとに分科会が作られるように思います。そして、そこで語られることの多くは「教師が何をしたか」、「どんな教材か」であっても、「それを学んだ子どもはどのようにうけとったか」は語られていないように思います。
我々の研究室には、小学校の先生、中学校の先生、高校の先生がいます。また、国語の先生も、社会の先生も、理科の先生もいます(もちろん、その他の教科も)。
そして、多くの教科を勉強している学生さんがいます。しかし、同じ部屋で、互いの研究を語るとき、その教科の違い、学校段階の違いを意識することはほとんど無いと思われます。良き職員室では、全職員が教科・学年の違いを越えて教育を語ることが出来ます。我々は、そのような教育研究を目指しています。
大きな分析単位による質的研究と量的研究の融合
教育という現象は複雑で、文脈依存的です。その教育研究を進めるに、大きく分けて二つの方法があります。複雑な現象の中にある一貫した現象を重視し、脱文脈したカテゴリーに基づき現象を量的に分析する量的研究が一つです。もう一つは、文脈毎に現れる現象を重視し、抽象化せず、現象を丹念に記述する質的研究です。多くの研究室では、その二つのうちの一つの方法で研究で進めています。
我々の研究室は、質的研究と量的研究を融合させようとしています。それを実現するために、カテゴリーの分析単位が、極めて大きくとっています。多くの量的な授業研究における分析の単位は、一つの言葉(時には単語)単位のものが一般的です。しかし、我々の研究では、それよりも大きな単位が中心となります。具体的には、1時間をおしなべた姿、また、数ヶ月のクラスの姿があります。なぜ、そのような大きな単位で分析するかに関して、
私はゼミ生には以下のように説明します。
「一つの言葉、仕草、表情には大きな意味があることがあります。ちょっとした表情によって、授業ががらっと変わることがあるよね。だから、それを分析している研究は重要だと思うよ。でも、うちではもっと大きな単位で分析しているんだ。だって、「これこれの表情はこれこれの影響を与える」なんてことが分かったとしても、それを意識し、表情を注意ながら授業するなんて出来ないよね。だから、もっと大きな単位で分析しているんだよ。例えば、子どもに対する考え方、授業に対する考え方に影響を与えるものを出そうとしているんだよ。」
このような大きな分析単位を採用すると、一見、文脈依存的に見える現象も脱文脈することができます。たとえて言えば、一つ一つの分子の運動を予測することは出来ませんが、それらの集団の姿は統計的に記載することが出来るのと同じ理屈です。
しかし、分析の単位となるカテゴリーは複雑で、短い文章でそれらの特徴を記載することは不可能です。そのため、それぞれのカテゴリーを記載するには、丹念に現象を記載する質的研究の手法によることが有効です。さらに、全ての現象をカテゴリー化し、量的に記載できるわけではありません。例えば、少数の事例にしか現れないが、極めて意味のある現象というのはあります。それを量的に記載した場合、「そのような現象が一回あった」としか記載できません。そのような場合、その少数の事例を丹念に記載する質的研究の手法は有効です。
質的研究と量的の研究は対立的に捉えるのではなく、有効につかえる部分を取捨選択し、目指すべき研究を実現したいと思っています。
現職院生、学卒院生、学部生が
ごちゃごちゃとした集団の中で研究を進めている
これは、『学び合い』や異学年を研究している我が研究室の当然の帰結です。このような運営をしている意味は、このメモを読まれている人であればお分かりのことだと思いますので、省略します。しかし、このような運営をしている研究室は本学の全コースでも二、三の研究室だと思います。大多数は、個人指導が中心ですし、せいぜい、院生のゼミと学部生のゼミを分けて運営しているぐらいでしょう。
でも、この様な運営をしている理由は、我々は「学術における実績」、「現場実践における実績」、「教員養成における実績」、「教員再教育における実績」を目指して
いるからです。もし西川研究室でやっていることを、一人で研究したら、とてつもなく大変なことです。山のような記録を分析し、その中から新たな発見をすることは、とてつもなく大変です。でも、みんなそれを乗り越えられます。何故かと言えば、メンバーが有機的にネットワークをくんでいるからです。別な言葉で言えば、志を一つにする仲間と、ともにやれば、巨大な山を乗り越えることが出来ます。だから、我々は他の人からは信じられない作業をこなし、他では実現できないような実績を上げ続けています。
ちゃんとやっている
色々な学生さん、院生さんから情報収集すると、驚くべき実態が分かります。それによれば、修士1年では講義の履修のみで、実際の研究をしていない研究室はかなり多いようです。ひどいところになると、入学後2ヶ月たった6月になっても、指導教官とのゼミが1回しかないという研究室もあります。卒業研究ともなるともっと凄く、カリキュラム上は3年から卒業研究が始まっているのに、実際に卒業研究をするのは4年の夏休み明け(即ち教員採用試験が終わってから)だそうです。そうなると、夏休み明けに、ちょちょいとアンケート調査をやって、終わり、だそうです。ところが、我が研究室は研究室所属が決定したとたんから卒業研究が始まります。従って、2年の12月、おそくとも1月からは卒業研究が始まります。当たり前ですが、大学院では修士1年から研究を始めています。私にとっては当たり前のことですが、我が研究室のゼミ生が一生懸命に研究をしていると、「大変ね~」と言われるそうです。
全ては可能、責任は自分
クラスがうまくいかなかった場合、「そのクラスが悪い」、「悪い子がいる」という理由づけで責任を転嫁する場合がある。それに対して、私は以下のように考えています。仮に、日本中の子どもの中で、悪い子どもが半分、良い子どもが半分だと単純化しましょう。そうすると、クラス全員が悪い子どもで占められる可能性は、二分の一の30乗~40乗となります。明らかに、そんな可能性はありません。全員というのは極端であるが、クラスの多くが悪い子で占められるという可能性もかなり低くなります。結局、どのクラスも約半数は悪い子で、約半数は良い子となります。何が言いたいかと言えば、確かに一人から数人の集団であれば、その構成する子どもたちの特徴が如実に出ます。しかし、30人以上となれば、よほど意図的な選択をしない限り、ほぼ等質な集団となります。
従って、子どもの特徴で解釈することには妥当性はないと考えています。さらに、教師をやっていると、本当に悪い子というのはいないというのが私の感覚です。従って、上記の二分の一という仮説も、最悪の状況の場合です。実際は、ほとんどのクラスの場合、良い子ばかりのクラスが多いと思います。ただし、とても手のかかる子どもはいて、その子がリーダー格であった場合は、とても大変になることは理解出来ます。しかし、その手のかかる子をクラスのリーダー格にしているのは、他ならない教師であることを忘れてはいけません(おそらく、無意識だと思いうが)。それに、「子どもが悪い」という解釈は、安易な方法で、そこから授業改善は「全く」生まれません。
筆者の勤めた高校は中の下ではなく、最底辺の学校でした。およそシンナー、妊娠、窃盗、暴走行為、授業妨害、暴言等々のことは一通りありました。しかし、幸いなことに、筆者の勤めた学校には、素晴らしい先輩教師がいました。勤めた当初において、筆者には鬼、猛獣としか思えぬ生徒が、その教師の前では可愛い高校生(いや、中学生、小学生とも見間違う)の姿を見せていました。その教師の授業の様子を廊下を通るとき見かけると、普通の教室が出現していました。
いやいやながら、子どもが悪い、クラスが悪いと理由づけが不可能なことを知りました。それらの教師は、全員、お茶のみ話でも、子どもの悪口を言わない教師でした。もちろん問題を指摘する場合もあるが、それは「行動」に関してであり、その生徒の「人格」を否定することはありませんでした。
遅まきながら、先輩教師を見習いながら、子どもと接し始めました。比較的短期間の間に、子どもは別な面を出し始めました。簡単に言えば、実に可愛い面です。もちろん、勉強においては遅れが大きいのは変わりありません。しかし、普段の日常会話においては、普通の可愛い子どもです。筆者は偏差値70の子どもたちと長期間つきあったことがありません。しかし、オール1の子どもたちを教えて、「それまでの蓄積の面は否定出来ないが、学ぶ能力においてヒトにはあまり違いがない」と強く感じました。
発達を理由に責任転嫁をする場合があります。私は「発達」という言葉が好きではありません。かつては「発達」という言葉をよく使いましたが、その反省も含めて、現在ではなるべく使わないようにしています。院生さんとの研究の話し合いにおいても、「発達」という言葉が発せられると、とたんに私の中の「警告ランプ」が点灯します。
私の研究の出発点は概念研究です。代表的な手法は、典型的な教科の問題を児童・生徒に与えて、その学年変化を測定するものです。その際、「発達」という言葉を使っていました。しかし、いくつかの問題点があります。第一に、教育心理学では、「発達」とは身体的な変化を伴うものであるものを指します。ところが、教科教育では知識・技能の蓄積をも含めたものを「発達」という言葉で表します。教科教育の研究の中心となっている小学校児童の発達は少なくないが、乳児・幼児に比べて、その変化は小さいことは常識的にも分かります。さらに、認知心理学の知見によれば、従来、発達しているという基礎的認知能力も、実は乳児の段階でも成熟していることが明らかにされています。そうであるならば、中学校・高校の生徒に「発達」という言葉を使うことには無理があると思います(発達が皆無とは言いませんが)。
しかし、根本的な問題点は、その言葉が使われる理由です。ある学年、あるクラスで、ある課題が出来ない場合、「発達段階が十分ではない」という理由付けをする場合は少なくありません。また、学年変化が見られた場合も、「発達により変化した」と解釈します。しかし、そのような「発達」は、何も説明していないし、何も生み出しません。「発達」という言葉は、「何故、それが出来なかったのか?」、逆に言えば、「何故、それが出来るようになったか?」という問いかけを封殺します。結果として、「どのようにすればよいのか」という教育上検討しなければならない課題を先送りにします。そのため、院生さんとの議論の中で「発達」という言葉が出たときは、次のように言います。
「確かに、発達が関係するかもしれないよ。でも、発達が関係すると考えて何が生まれるの?きっと何も生まれないんじゃないかな~。どんな年齢の子どもでも出来る、どんなタイプの子どもでも出来る、そう信じてみるほうが実り多いと思うよ。」
私には夢があります。今から40年ほど前、アメリカのカリキュラム改革の時、ブルーナーは「どの教科でも、知的性格をそのまま保って、発達のどの段階の子どもにも効果的に教えることが出来る」という仮説を立てました。簡単に言えば、どんなに難しそうなものでも、どの年齢の子どもにも教えられるという仮説です。それに対して、私は「いかなる子どもであっても、授業において救うことは出来る」という仮説を立てたいと思います。
ここでいう、「救う」とは、分からせ・理解させることを必ずしも意味しません。その子どもの、人間的に美しい部分で他者と接することを意味します。また、本心から、その「教室で勉強したい」と感じさせることを意味します。
ただし、「授業において」という限定があります。即ち、教室・学校を一歩出た、家庭・社会における彼らを必ず救えるとは述べていません。しかし、いかなる子どもであっても救うことが出来ることを強調したいと思います。いかなる子どもとは、暴力行為を繰り返す子、暴走行為に走る子、家庭的に崩壊している子なども含まれます。大胆な仮説であることは理解していますが、私はこの仮説を現在信じられます。もしくは信じるに足るものだと確信しています。教師の力は限られています。何とか出来るのは、子どもが目の前にいる、その日、その時間にしかすぎません。しかし、その日、その時間は、確かに出来ると信じています。また、その日、その時間は、限られたものであるが、少なくとも、その子にとって、その日、その時間があることは、ものすごい影響力を持っていると信じています。
社会・親・子ども・クラス・発達が大きく影響することを否定するわけではありません。しかし、それで何が生まれるでしょうか?何も生まれません。10年、20年、30年と続けなければならない教師生活を、他に責任転嫁し、結果として改善のない年月で過ごすには長すぎます。
子どもは有能だと信じる
我々が大事にしているのは、「子どもは有能だ!」という子ども観、「教師は教えるのではなく、学び合うための目標と評価を与え、子どもが主体的に学べる環境を整備するべきだ」という授業観、「学校教育は人と人とのコミュニケーションの場である」という目標観です。授業観をより詳しく言えば、教師の主な仕事は「目標の設定」、「評価」、「環境の設定」です。また、環境の設定において重要なのは「外部との調整」と「可視化」です。しかし、その中で最も大事なのは「子どもは有能だ」という子ども観です。授業観、目標観は、その子ども観からの必然から導き出されるものです。
どれだけ有能かと考えるかと言えば、教師である大人と同じぐらいです。人は学ぶ能力を本能として得ている生物です。そのような能力を学校教育のような組織的な学習がなければ得られないならば、厳しい生存競争の中で淘汰されています。我々は、その本能として持っている学習する能力を最大限に生かした教育が、もっとも良い教育だと信じています。
子どもは大人と同じだけ有能です。でも、逆に言えば、大人と同じ無能さを、子どもは持っています。「子どもは素晴らしい」とい考えは、一見、良い子ども観のように思えます。しかし、その考えは、大人と子どもは違うという考えと同根です。何かの拍子に、「子どもは無能だ」という考え方に繋がります。したがって、そのような考え方をとりません。
関係に着目する
問題が生じた時、その原因のように見える学習者や教師がいます。しかし、我々は、その学習者・教師の個人的な問題とはとらえません。その学習者・教師のおかれた場によって、「させられている」姿ととらえています。我々は「犯人探し」をしているのではなく、場を変化させることによって教育改善を目指しています。