西川研究室で学べること

最新の学問を学べる 

 学問は常に進歩(少なくとも変化)しています。例えば、私が専門としている理科教育学では、私が大学院生だったときは「探求学習」、「発見学習」、「問題解決学習」などの学習論や、アンケート調査を主とした概念研究が盛んでした。しかし、現在までに、「認知的アプローチ」、「構成主義」、「社会的構成主義」、「質的研究」などの新たな研究が生まれています。

 このような新たな諸研究から見たとき、現在問題となっている、「理科離れ、算数離れ、国語離れ等の知離れ」や「総合学習」、「環境学習」を従来とは全く異なった視点で見ることが出来ます。

 このような新たな研究に関する、比較的読みやすい本も最近では増えています。しかし、本当にそれを体得するには、実際にその研究を行っている集団の中に入り、自ら研究をしつつ、同様な研究を行っている先輩、同輩、後輩、教師と議論(雑談を含めて)しなければなりません(実はこの考え方自体が「社会構成主義」の1つの考え方です。)。大学院はそのような機会を与えます。

時間をかけて学べる

 現場においては、明日の教材研究、今日起こったことに対する生徒指導などの連続です。一方、大学においては、かけようと思えば、1日かけて1つのことに打ち込めます。さらに、それを数ヶ月続けることができます。

 例えば、読みたかった研究・実践書を数十冊読んだり、1ヶ月かけて教具を作成することができます。また、私の研究室では、一時間の授業中に話される全ての生徒の呟きをテープレコーダーやビデオで記録し、分析します。それを数ヶ月にわたって行います。この分析を通して、目立たない子どもたち(圧倒的大多数)が、何を考え・行動しているかを知りたいと願っています。しかし、1時間の記録を起こすには最低1時間以上かかります。クラスが30人であるならば、かかる時間は30倍となります。これは現場の授業研究では絶対に不可能です。

いろいろな人に会える

 現場においても様々な年齢の人と職場が一緒になります。しかし、その中では中堅/若手、先輩/後輩というしがらみがつきまといます。大学の研究室では20才から40才の学生・院生が、職場のしがらみなく、ざっくばらんに話すことができます。

 学校現場にいるときは、学校種(小学校、中学校、高等学校)の異なる人と触れあうことは稀です。各学校種で学ぶ児童・生徒の発達は様々です。また、受験の影響の度合い、生徒指導(例えば退学の有無)なども、各学校種では異なります。さらに、比較的狭い地域内で人事が行われることも多いです。異なった年齢・職場・地域の人と触れあうことによって、自分自身が常識としていた「しきたり」の異常さや、逆に、その重要性をもう一度考え直すことができます。

 この、いろいろな人と会えるという利点は、入学以前に意識されることは稀です。しかし、入学後の院生さんに聞くと、大学院入学によって得た大きな財産としてとらえられています。

研究は楽しい

 世の中には「源氏物語に”あ”という文字が何個あるか」、「アリが歩き出すとき右足から出すか、左足から出すか」(この2つは、あくまでも極端な例で本当にあるかどうか分かりませんが。)など、専門外の人間には全く理解できないような研究をしている人もいます。そのような研究を行う理由は、他者は理解できなくとも、本人は楽しいからです。振り返ってみれば、親からはゴミにしか見えない物を、必死になって集めた経験は誰しもあるでしょう。熱中したことは面白くなるものです。まして、現在、日々行っている教育に関して研究して面白くないわけがありません。

 『自分自身も”研究”については、かなりの不安を持っていました。でも、実際にやってみると、意外と?面白いということに後になって気付いた一人です。このことは経験してみないとわからないことですよね。』

 これは、ある県の教育センターで指導している、本学OBから来た電子メールの一節です。

最後に

 我々の研究室では、徹底的に子どもを見ます。例えば、授業を3ヶ月間、ビデオ3台で記録し、子どもたちにカセットテープを与えて一人一人のつぶやきを記録します。つまり、1時間の授業中のクラス全員のつぶやきを拾います。こんなことは現場にいる間は絶対に出来ません。

 このようなことを通して、気づくことがあります。第一に、今まではクラスの表面だけしか見えなかったと言うことに気づきます。第二に、目立たなかった子どもも、まじめにやっていないと見えた子どもも、一生懸命になって学校という時間を過ごしていることに気づきます。そして、以上の結果として、建前論だけではなく、心底から子どもの可能性を信じることが出来ます。

 これらは、大学院から学校に戻ってからの30年間の教師生活で、常に指針となってくれます。